今年で11回目となる「ひのきしんの集い」。
毎年、本開催に先立って「ひのきしんの集い研修会」を行っています。今回ひのきしん会場となる宗像市・さつき松原では2度目の開催となり、研修会には宗像市長はじめ多くの来賓がご臨席くださいました。
研修会の内容は、遠く宮城県より仙台大教会長・加藤元一郎先生にご来会頂き、ご講話を頂戴しました。続いて災害救援ひのきしん隊の発足と経緯、福岡教区の取組みなどをビデオ上映し、次に県内の災害による被害状況やボランティアの活動について、県職員よりスライドを用いて詳しく説明いただきました。
仙臺大教会長 加藤元一郎先生
研修会にてお話しくだされた加藤先生の講話(要旨)
東日本大震災を通して
震災直後、100名ほどの被災者を教会で受け入れました。期間は1週間でした。一番の心配事は食糧で、100人分を賄うため2俵の米を乾麺と混ぜたりして召し上がっていただきました。余震が頻繁に起こる中、一緒に過ごし、地域の方々と大変仲良くなりました。後日、多くの礼状をいただき、どの礼状も心温まる内容でした。そのお褒めの言葉をいただいた時、教祖の教えが褒められている気がして大変嬉しかったです。褒めてくださったのは、教祖に対して、教祖の教えに対してだと思いました。
「たすけていただいた」という自覚
この震災で学んだことは、「たすけていただいた」という自覚を持つことの大切さです。津波から間一髪たすかった人もいれば、数キロ離れていてたすかった人もいる。「たすけられた」に時間差、距離の差はあっても、たすけられたことに変わりはありません。たすけていただいたという自覚を忘れてしまっては、ご恩返しをしようとか、感謝の心が生まれるということが無くなってしまう。これは日常生活でも言えることです。教えに大難は小難に、小難は無難にお導きいただくご守護とあります。「信仰しても何も変わらない」と信仰のない方がおっしゃいます。しかし、昨日見えていた目が今日見えないでは困ります。昨日と同じように見えるから何も変わらず生活できるのです。常日頃、無難にお連れ通りいただいていることに気付けば、生かされていることへの感謝が生まれます。たすけていただいている自覚がひのきしんに繋がることに気付かされます。
たすける人、たすけられる人
力があって、余裕がある人がたすける人。力が無くて、余裕が無くて、本当に困っている人がたすけられる人と世間一般では言われていると思います。しかし、教祖は、例えば病気で苦しんでたすけを願われる人に「人をたすけなさい」と仰せられ、また、誰に対してでも「人をたすけなさい」と仰せられました。たすける人とたすけられる人は決まっていないのです。区別がない。皆たすけられる人であり、たすける人なんだ。この姿こそ、真のたすけ合いだと思います。
心のキズの痛みを敏感に感じよう
大丈夫と言って笑顔で笑っていても、心の中では泣いている人は大勢おられます。笑顔と涙は背中合わせのようにも思います。心のキズの痛みに敏感でいなくてはならない。人の苦しみ・悩みに触れる努力が人のために尽くす行いとなり、ひのきしん、おたすけの上で欠かせない大切なものだと思います。
ひのきしんの喜びとは
人に喜ばれる、感謝されることが目標なら、誰も見ていなければ、教会の便所掃除も窓拭きもゴミ拾いもしなくなると思います。ひのきしん、おたすけで言われる人に尽くす喜びとは、人が喜ぶかどうかではなく、神様にお喜びいただけるかどうかであると思います。時には、いらんお世話と罵倒されても、評価されなくても、お礼を言われなくても、神様が受け取ってくださる、この喜びで通るのがひのきしんの喜びであり、お道を通る喜びであると思います。
約500名の参加者は、ひのきしんという教えの素晴らしさ、地域に根ざした活動の大切さ、災救隊の必要性などを再認識しました。