ありがとうの5日間〈2日目〉

平成23年11月6日(日)少雨(2日目)

8時30分。社会福祉協議会(社協)の全広場にてミーティング。生活支援係B班に配属される。生活支援の役割として、仮設住宅にお住まいの、一人暮らしの高齢者や高齢者だけの家族の方などの、日常生活に関わる出来事や、健康や精神面などの相談業務に携わる。
社協の施設も全て仮設である。生活支援係の事務室の広さは、10畳ほどである。職員さんは3つの班に分かれ、それぞれに6人の相談員という構成。その中に他のボランティアも加わり活動する。

午前中は、Aさんと動向。夫と長男夫婦と同居。仮設住宅での生活である。始めに、この町の現状を見てほしいとの事。中心街だった所を通り、車は止まった。「ここに私の自宅があったんです。」と、荒れた基礎だけが残されている前に立って、話された。「ここが玄関、ここがお風呂。奥に行くと両親の部屋。隣が子供部屋・・・」新築10年のマイホームだった。役場のすぐ裏。この町の最も中心街だった。にぎやかに普通の生活が営まれていた。さらに話は続いた。

津波の直前だった。家の前に車を止めて、近くにある寺の後の高台に向かった。先に子供たちと夫、両親は非難していた。後を追いかけた。津波に膝まで追いかけられた。恐怖と必死だった。眼下に見る津波の大きさ、津波で街が消えていく。まるでテレビ、映画のシーンそのものだった。この町は津波だけで火の海。あちこちで爆発が起き、火柱が立ち、3日間燃え続けた。避難した丘の上の木々はいまだに真っ黒に焦げた跡を残している。

基礎のコンクリートだけが残された我が家の上に立って、Aさんは話してくださった。押し殺した声で、でも笑みも含めて「やっとこうやって話せるようになったんです」と。何も言葉が出てこなかった。「シャッターを押してもいいですか」と、やっとの思いで尋ねるのが精一杯だった。

 

仮設住宅の案内をしていただく。全部で48ヶ所。1902世帯。今日の担当は、B地区の22カ所。車での移動ではあるが、かなりの距離の山道を走り、軽自動車がやっと通れるようなところにまで設置されている。土地の確保が困難だったとの事。今まで、海で生活していた人々が、こんな山の奥での仮設生活が出来るか気がかりであり、特に一人暮らしの高齢者にとっては、これから訪れる冬が心配で、自分たちにどれだけの事ができるか分からないが、頑張るしかないと。

さらに、移動する車の中で、Aさんは話し続けて下さった。 大槌町立病院の上に避難していた人々は、木々に燃え移っていく山を見て、避難したほとんど全ての人が焼け死んだと思った。逆に、山の上の人は、病院の屋上の人々は助からないと思ったそうだ。これは後日、再会した人々が、お互いにその時の様子を語った時の内容であった。

次の話は、Aさんの小4の子どもさんの事についてだった。最近の事である。Aさんに、学校の担任の先生より、ある出来事が伝えられた。
それは、子どもたちの遊びで、「ごっこ遊び」というのがある。遊びの役割を決めるとき、僕は「死人の役割をする」と言ったそうだ。これからは、「心のケアがいかに大切で、必要であるかが求められるのではないか」と、担任の先生より話があったとの事。
高齢者をはじめ子どもたちへの今後の支援には、何を求められ必要とされるのか。阪神大震災の教訓をしっかりと生かしていく取り組みが早急に必要になっているのではないだろうか。特に心の支援は、短時間で解決できるものではないからだ。

またAさんは、親族の安否を確認する為、震災直後、被災地を廻った時の事を話してくださった。1日に数十キロも歩いた。しかし、その時は少しも疲れなかった。必死だった。歩く道には、あちこち死体が転がり落ちていた。その姿は、波にのまれながらもやっと水面に顔を出し、空気を吸ったかと思った瞬間、瓦礫や車などにぶつかり、頭や顔は削られ、手や足がもぎ取られていた。さらに、黒焦げの姿があちこちに転がっていた。火災が続いた為だ。テレビや新聞などで知らされない、悲惨な状況を次からつぎへと、堰(せき)を切ったように語られた。

我が家から高台に非難する時の状況も話された。Aさんは、目の前に乳母車を押していく老婆を見た。はやく逃げるようにというだけで思うようにはいかない。何とか助けたい。自分の背中に背負った。目の下では、波が次々に全てを奪っていく。もう少し遅れていたら二人とも今はいないかも知れない。どこからそんな力が出てきたのか、今でも分からないと。その時のことを思い浮かべておられるかの様に、語ってくださった。

「被災して数ヶ月は前に進めなかった。何も考えられなかった。この仕事は8月からスタートした。被災者の人の支援に携わるようになって、やっと自分の事も見れるようになった。そして、こんなに話せるようになった」と。
初対面の私に、どれだけの信頼があるのか分からない相手なのに。有り難くて、感謝でいっぱいだった。

昼食は、それぞれ持参した弁当である。私は、コンビニで買ったおにぎりとパン。実は、そのコンビニ店が、いま全国で売上一位を続けているそうだ。とにかく、駐車場はいつも満車である。レジの前は、何人かの行列が続く。おにぎり、お弁当の入れ替えは、1日で、3回はあるとの事。空いているお店が今のところここだけ。被災地へのローソンの対応は早かったようだ。

昼食時はとても賑やかである。10畳ほどのスペースに15~16人が陣取り、肩を寄せ合うようにして食事する。地元の岩手弁での会話は、我々にとってはとても愉快で、意味を聴き返すのもできないほど、楽しいひと時だった。突然、避難食の提供を申し出られた。快くいただいた。熱湯で温められた五目ご飯は、格別においしかった。外は寒いが、部屋の中はみんなの熱気で暑いくらいであった。


さて、午後1時より「お茶っこの会」に参加する。同行していただくのは、Bさんである。1人暮らしの高齢者の方々のデイケアへの支援だった。「フライパンダ」というボランティアグループが今日の支援者である。
20畳ほどの部屋に、女性10名、男性1名の方々が参加された。最初の1時間は、来所者のみなさんの1人ひとりと会話をさせていただいた。家族の事、被災の事、仮設での生活の事など、今の思いをじっくり傾聴させていただく。そのうち私の九州弁が出始めた。頭の薄いのを話のネタにした。おかげ様で、それをきっかけに会話が弾み、笑い声も生まれてきた。ちょっとだけ、つらかった事等の話もこぼれてきた。

後半の1時間はギターの演奏に合わせて、準備された歌詞カードを手に持って、歌が始まった。私も参加した。皆さんの間に入って一緒に歌った。雰囲気を見計らって、思い切って、手拍子や合いの手を入れた。それから皆さんの表情が思いっきり変わった。さらに大きな声で歌い、大きな声で笑って頂いた。「久し振りにこんなにこんなに笑ったのは」と喜んでいただいた。
喜んでいただいた事に感謝し、お礼を申し上げた。さらに嬉しかったのは、同行して下さっているBさんが、「震災後始めてこんなに心の底から笑えた」と移動する車の中で話して下さった。心のケアが僅かな一端を務めさせていただいたような思いがし、有り難かった。
午後4時30分よりミーティング。今日1日の出来事の中で問題提供がなされる。その中でも特に多いのが仮設住宅の状況についての件数が多い。雨が降ると床下に雨が溜まる。駐車場は個人を特定していいのか。土砂崩れの恐れがある場所に設置されている仮設も有り危険である。など行政への要望はしているが、対応が十分でないのも事実である。

・筆者 プロフィール

具志道次(ぐし・みちつぐ)

みやま市在住
天理教幸若分教会 会長

平成23年11月5日から9日まで、福岡県消防防災課の要請により出動となった天理教福岡教区災救隊(災害救援ひのきしん隊)第1班と共に岩手県大槌町へ。現地では生活相談員として活動。